A・E・ハウスマン (A. E. Housman, 1859-1936)
イングランドの詩人、ラテン学者。1859年3月26日、イングランド西部ウスターシア (Worcestershire) のフォックベ リー (Fockbury) に生まれる。事務弁護士だった父親よりも母親に愛着を持ち、そのためハウスマンの12才の誕生日に母親が死亡したことは大きな打撃となった。これが彼の詩 に流れるペシミズムの一要因であろう。オックスフォード大学聖ヨハネ・カレッジで学んだが、ここで同性愛の目覚めに苦しみ、学生仲間で運動選手だったモー ゼス・ジャクソン (Moses Jackson) に強い執着心を抱いた。ジャクソンはハウスマンの愛着を相手にせず、単なる友人としてつきあったが、彼はハウスマンの後の作品の重要なインスピレーション となった。オックスフォードの卒業試験に失敗し、1882年から92年まで、ロンドンの特許局の事務員として働いた。この間に、彼は大英博物館の閲覧室で ラテン文学を研究し、雑誌に論文を投稿したりした。1892年にはロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジのラテン文学教授として迎えられた。
1896年に『シュロップシアの若者』(A Shropshire Lad) を出版。この作品は、シュロップシアという半ば架空の土地を舞台にして、バラッド形式で書かれた63篇の短い詩の連作である。バラッド調の素朴なスタンザ とテーマにフォークソングの調子を併せ持つこの作品は、最初の売れ行きははかばかしくなかったが、最後には広い人気を博した。バラッド学者フリードマン (A. B. Friedman) はこう述べている。「現代詩人の中で、ハウスマンは民衆詩において傑出した存在である。彼の作品の出所を辿ったものなら一様に賛成するのだが、ハウスマン はスコットランドのボーダー・バラッドの影響を誰よりも強く受けている。フォークソングに負うところはもっと大きい。というのは、ハウスマンがシェイクス ピアのソングやスコットの叙情詩やハイネの短編詩などで尊敬しているものは、それらのフォークソング的な性質である。」[The Ballad Revival: Studies in the Influence of Popular on Sophisticated Poetry (The U of Chicago, 1961) 335-36]
1911年にケンブリッジ大学のラテン文学教授となる。36年4月30日死去。 (H. N.)
原詩(英詩) | 訳詩 |
1. Atys | 1. アテュス |
2. Bredon Hill | 2. ブリードンの丘 |
3. The Carpenter's Son | 3. 大工の息子 |
4. The Culprit | 4. 罪 人 |
5.The Deserter | 5. 脱 走 兵 |
6. Farewell to Barn and Stack and Tree | |
7. Grenadier | 7. 擲 弾(てきだん)兵 |
8. Is My Team Ploughing? | 8. 相棒の馬たちはちゃんと耕してるかい |
9. Lancer | |
10. The Merry Guide | |
11. New Year's Eve | |
12. Oh See How Thick the Goldcup Flowers | |
13. Oh who is that young sinner? | 13. あの若き罪人(つみびと)は誰 |
14. On Moonlit Heath | 14. 月明かりのヒースの土手 |
15. The True Lover | 15. 永遠(とわ)の恋人 |