ウィリアム・ハミルトン (William Hamilton of Bangour, 1704-54)


 

スコットランドのジャコバイト派詩人。リンリスゴウ (Linlithgow) 州バンガー (Bangour) に生まれ る。1745年のチャールズ王子 (Charles Edward Stuart) が率いた反乱に組して、イングランド軍を撃破したプレストンパンズ (Prestonpans) の戦いの勝利を "Gladsmuir" という 詩にうたったが、カロデン (Culloden) の戦いの敗北後ハイランドに逃れ、そこで"A Soliloquy wrote in June 1746"という詩を残している。しかし今日ハミルトンの名は、彼の有名なバラッド詩 "The Braes of Yarrow" によって記憶されている。最初アラン・ラムズィ (Allan Ramsay) のThe Tea-Table Miscellany (1723) に発表され、その後パースィ (Thomas Percy) の Reliques (1765) 第2巻に収録された。

元歌となった"The Braes o Yarrow" (Child 214) は、家族から認められない夫(版によっては、恋人)がヤロー川の土手で女の兄弟たちとの決闘の末に果ててゆくという物語であるが、ハミルトンの作 品では決闘はすでに終わっていて、ハミルトンが 'A' と名付けた男(恋人を殺した男)が残された女('C')を口説いて、自分と結婚してヤローの村を出て ゆこうと誘っているという内容である。'B'は事件とはまったく無関係な単なる第三者で、問いを発することによって、それに対する回答から徐々に内容を明 らかにする役回りを演じている。

ヤ ロー川のほとりに 'Dryhope Tower' と呼ばれ、「ヤローの花」とうたわれたメアリー・スコット (Mary Scott) の館の廃墟がある。伝承の歌の中では、恋人を失った彼女は最後に悲しみに胸張り裂けて死ぬことになるが、現実には彼女は1576年にウォル ター・スコット (Walter Scott of Harden) と結婚している。結婚前に実際にこのような恋愛事件があったのか、それとも、これは彼女をめぐって作られたまったく架空の物語なのか。ハミ ルトンの作品における話者'A'は、メアリーが現実に結婚した人物と重なるのか。想像するに、ハミルトンもその地を訪ね、ヤロー川のほとりに佇んでこの廃 墟を目にし、「ヤローの花」とうたわれた彼女をめぐって、事件の後日談として彼の作品を作ったのか。そうであれば、設定された三人の登場人物'A'、 'B'、'C'が一つの事件をめぐって様々に思いを巡らす彼らの意識は、取りも直さず彼の地に佇んで思いを巡らせた作者自身の「意識の位相」だったのか。 フリードマン(Albert B. Friedman)はこの作品について、"The poem has much ballad-like language but a most unballad-like discursiveness." [The Ballad Revival: Studies in the Influence of Popular on Sophisticated Poetry (Chicago, 1961) 160] と一言で片付けているが、この「とりとめの無さ」こそ、このような伝承バラッドに向かう時の詩人の意識なのである。バラッド詩が単なる模倣から逸脱してゆくときの質的変化をハミルトンの作品は端的に示していると言える。

(初出のThe Tea-Table Miscellany においては登場人物'A'、'B'、'C'は明示されていないが、話の流れを判りやすくするために話者を表記した Reliques 版をテキストとして採用した。) (M. Y.)

論文 1 山中光義「ヤロ−川詩情: “The Braes of Yarrow”」
原詩(英詩) 訳詩
1. The Braes of Yarrow 1. ヤローの川土手